部分引用

随分前に読んだ『つながりの作法』を再読。
自分と綾屋さつきさん、熊谷信一郎さんとの共通点と相違点について第一章と第二章から「部分引用」してまとめてみました。


●綾屋さつきさんとの共通点。

私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。p.14

私には「声を出して話す」という行為がとても難しかった。長年、何だか発声器官をうまく操れないことに、ずっと悩んできた。p.31

音声言語で話そうとすると、自分の声であっても意味がとりにくい上にすぐ消えてしまうが、文字言語だと明確な意味が消えずに残る。また私にとって「文字を紙に書く」という運動も、発声運動と同様に、調整でかかりきりになってしまってスピードが遅く、しかもできあがった文字がふぞろいで意味がとりにくいものになってしまう。p.39

私はしょっちゅう、「誰ともつながってない!」という感覚に襲われる。p.40(但し、僕の場合は感覚といよりは明確に意識している)


●相違点

「私」という統一感を持った「存在の輪郭」と呼べるようなものまでも、すぐに見失ってしまいがちになる。p.18

「バラバラな情報の大量インプット」という特徴は、情報が「自分の身体の内側か外側か」に関わらず生じている。p.21

「木を見て森を見ず」という言葉を引用するならば、「木の一本一本の特徴は何百本分も覚えているが、木と木の関係性や森全体の傾向は読み取れない」といったところだ。p.26

「わたし」を立ちあげるためには、キーボードとディスプレイが不可欠となり、「私の思考はキーボード操作をする指先とのみ直結している」と感じるまでになった。p.39

世界とつながっていない感覚が高じて、「はたして自分の感じていることは本当にあるのだろうか」と自分の感覚に確信が持てなくなり、「そもそも自分は確かに存在しているのだろうか」「自分は何者なのか」という実存感覚まで危うくなっていく。p.42

●熊谷信一郎さんとの共通点。

私がキーボードを打つ時というのは、右手の人差し指だけでパソコンを打っているにもかかわらず、指や手首の筋肉に力が入るだけではなく、肩の筋肉や腰の筋肉も含めて、ほぼ全身の筋肉を使っている。p.47  (ただし、僕が使っているのは「筋肉だけではない」)

身体の各部同士のつながりが強すぎると、一つの小さな動きをしたくても、全身運動をしてしまって疲れやすいことが問題となる。p.47

脳性まひのもうひとつの問題は、「体の筋肉が過剰につながってしまうために、外の世界としなやかにつながれない」という点にある。p.49

「健常者幻想」は「いまだ至らない、不完全な私の身体」というイメージを突き続けることで、自己身体についての信頼、つまり自信のようなものを奪い続けるし、p.52

密室の中で膨れあがった幻想的な規範イメージは、私の身体がありのままであることを否定する。その否定のエネルギーによって、私の体は等身大の状態からずらされ続け、身体内にひずみエネルギーのような緊迫が高まるのと並行して、監視のぐるぐるが加速していく。そしてエスカレートしていくひずみとぐるぐるが一線を越えると、まるで堰を切ったように身体外部へと爆発的に放出される。p.54

一人暮らしをする前の私のように、欲求が立ちあがるや否や親が解決してしまうという状態では、自分自身の欲求のもとになる身体内部の乱れやつながらなさと、長時間向き合うことができなかった。p.60


相違点

「厳しい社会幻想」は、「無理解で無慈悲な恐ろしい世界」というイメージを突きつ
け、「なんとかなるさ」という世界への信頼を損なっていく。自己身体と世界への不信は、密室の殻を破って外の世界へとつながっていくための楽観的な構えを奪い、怯えながら密室にとどまらせる力として作用するため、母との分離不安と外界への社会不安はますます高まっていく。p.52

密室から一歩踏み出した私は、世界とつながっていった。p.64


・つながりの作法というタイトルと、二人の著者の関係が夫婦であることは関
 係あるのだろうか...。


・部分引用ではなく、自分の言葉を獲得する、その日まで。。。