つながりの作法

綾屋紗月さん、熊谷晋一郎さんの『つながりの作法』再読。


本書の第1章と第2章では身体内部でのつながりについて、3章ではコミュニティレベルで検討し、
4章と5章では、当事者研究の可能性と具体例について書かれている。
章を追っていくごとに、「私」から社会に開けていく経路が描かれているように思えた。
しかし約一年前に読んだ当時は、終章で再び自分に回帰したのが個人的に不満だった。
当時の僕は、その経路の先に「社会的な資源へのアクセス経路」(斎藤拓〈立岩真也さんとの共著〉『ベーシック・インカム』p.231)
を求めていた。


読み返して本書に対する印象はかなり変わったが、再読した際も「私」のつながらさについて綾屋さんが書いた第一章が一番興味が深かった。


例えば、綾屋さんは自身が内外から受け取る情報を統一できない状態を「木を見て森を見ず」という慣用句を用いて、《「木の一本一本の特徴は何百本分も覚えているが、木と木の関係性や森全体の傾向は読み取れない」といったところだ。》(『つながりの作法』p.26)と言う。


僕は逆に「木の一本一本の特徴」、つまり、細部を読み取ることに極度の疲労を感じるため、記憶することを回避し、「木と木の関係性や森全体の傾向は読み取」っている気がする。いわば、「木を見ず森を見る」傾向があるのではないか、ということに気づけた。


柄谷さんは、武田泰淳が『史記』に見出した構造について次のようにいう。


《彼は『史記』のなかに、ヘーゲル主義的な把握に対立し、且つそれを相対化する視点を読もうとした。それは歴史を空間的に把握することであり、「世界」史から意味・理念・目的を排除し、そこに「中心のない諸関係の体系」をみることである。あるいは「混沌」―ードゥルーズの言葉でいえば西洋思想史が抑圧してきたリゾーム(根茎)的な網網状のシステム―ーをみることだ。210》(『歴史について』、『終焉をめぐって』所収、p.210)


「中心のない諸関係の体系」、「混沌」、「リゾーム(根茎)的な網網状のシステム」をみつめる生活は、細部を読み取ることに極度の疲労を感じる身体的な条件が支えている。そしてその極度の疲労を及ぼしている具体的な諸事情を意識的に抑圧している。


つながりの作法では、「研究の論理」を具体的に実践する上で
「抑圧されずに一次データを語れる場の制度的確保」が重要だという。(P.131,P.134)


そのような制度的に確保された場で、自分の意識的な抑圧は解放されるだろうか。
それとも意識的な抑圧は、社会の絶対の関係性がもたらすのだろうか。
それともやはり立ちふさがっているのは僕の規範意識か。
いやその規範意識は健康幻想が、、、これが「ぐるぐるモード」なのか…

伝えることも伝えないことも共同生活を脅かすことになるとするならば、今の私がどちらをとるべきかといえば、少なくとも相手との共有が始まる可能性のある「伝える」しかない。「これは規範からはずれてしまっている恥である」と思って誰にも言えずにいたことを、初めて人に伝えるというのは、もっともハードルが高い作業だ。毎回、「これを言ったらこの人はあきれて離れていってしまうのではないか」とひどく怯える。でも話さずに相手を脅かすくらいなら震えながらでも自分が話すしかない。沈黙の暴力をふるわないために、私には話す「責任」があるのだ。ここでようやく、私は外へ向けて始動する準備が整う。(P.207)


約一年前の当時の僕が第六章に不満を感じたのは、【「これは規範からはずれてしまっている恥である」と思って誰にも言えずにいたことを、初めて人に伝えるというのは、もっともハードルが高い作業】を、【沈黙の暴力をふるわないために、私には話す「責任」があるのだ】という覚悟に至るための、【外へ向けて始動できる準備】が整っていないかったからかもしれない。


「恥」とは...