時代錯誤で普遍的なアフォリズム

語り

初めから「謎」は存在しない。語りえぬものなどない。ただ、語りたくない。 「語れない」と語ることによって、語りたくないと思わせる社会が浮かび上がろうと、 それは人々にとって自明な「現実」に過ぎない。 故に初めから「謎」は存在しない。

問い

学校とは何か、仕事とは何か、結婚とは何か、といった問いに僕は遭遇していない。 生きるとは?愛とは?といった哲学的な問いも同様に。 それらの問いは社会参加当事者が「切実」に、あるいは「何となく」遭遇するのだろうか。 または、口にしてしまうのだろ…

罪と罰

もしも罰を受けるのなら、相応の罪を犯したい。それが社会参加なら、どんな罪を犯せば良いのだろうか...

3

阿呆でもない 河童でもない ボードレールも知らない。 根ざした疲労も克服したい。しかし、 「左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見」ている自分がいる。

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ニーチェの抱えた身体的な疲労の回復。その道筋を描くのが、 生の充溢を図る積極的な意志であると言わざるを得ない自分には、 「然り」と言おう。

1

ニーチェは最も積極的な意志のある思想の持ち主だったと思う。 だが、これまでの自分に「然り」というのは、ニヒリズムに他ならない。 そして、これからも。