人間失格

太宰治の『人間失格』のあとがきで奥野健男さんは、
「思うにこの時期、作者は精神的、肉体的に衰弱疲労していて、自己のモチーフを充分に文学的に肉付けすることができなかったと考えられる。(中略)作者はこのような主人公を設定することにより、社会の既成の価値感や倫理を原質状態に還元させ、その本質をあらわにさせる」と書いている。


精神的肉体的疲労の故か、自己のモチーフを文学に仮託する必然性がないのか。

太宰治は、自己の内的真実にあくまで忠実で、自己の欠如感覚をあくまで深め、妥協せず自分を偽らず、そして人間の真と愛と正義と美を追求する主人公を設定し、彼が挫折、敗北する過程において、俗世間は偽善にみちた悪を、醜さを、非人間性をはじめてあらわにした。これは十八、九世紀のビルドゥングス・ロマン(教養小説)の自己形成と反対に、真実を追求する故に崩壊し、ついには人間でさえなくなる自己を描いた現代の疎外状況を象徴した小説である」


思考する上では「社会の既成の価値観や倫理を原質状態に還元」しつつ、修行(自己形成)したい。

三角関係

僕には三角関係がなかった。ただ、相手(対象とは言いません)に対する想いがあった。相手がどこかで誰かと幸福になればそれで良いと思っていた。もっとも「誰か」が「自分」では有り得ないという意識があった。その意識が三角関係を問題にしなかった。

三角関係の問題のなかに、実は「政治」の問題がひそんでいるというべきである。”先生”もKも、ともに何かを裏切ったのだ。それは明治二十年代において着々と整備されていく近代国家以前にあった多様な可能性であるといってよい。(柄谷行人『終焉の時代』41p)


生まれつき「政治」とは無縁だったのかもしれない。ゆえに「あった多様な可能性」に執着し続けている。だれもが当たり前のように三角関係に閉じられているこの社会において。

「明治の精神」は、もはや取りもどしえないものであるがゆえに、悲劇的なのである。しかし「昭和の精神」はそうではない。それは、「昭和維新」がそうであったように、つねに、「明治の精神」ーいうまでもなく明治二十年代までの可能性を意味するーをなぞり再現(想起)するものとしてあったからである。(同上44p)


なぞり続けるのは悲劇ではないのか。

マディソン群の橋/イーストウッド・・・3

30歳未満の女友達は皆結末をもどかしがった。彼女たちは意のままに生きられる時代に育ったからだ。
1965年の片田舎に暮らす主人公は違う。あきらめるしか選択肢はなかった。

(メイキング、脚本のリチャード・ラグラヴェネーズの発言より)

マディソン群の橋/イーストウッド・・・2

分からない?そうでしょ?女ならば結婚して子供を産もうという選択をする。
そこから人生は始まり同時に止まってしまうの。
日常の些事に追われて子供たちが前進できるよう母親は立ち止まって見守る。
子供はやがて巣だっていって、さていよいよ自分の人生を歩もうとしても、
歩き方を忘れてしまっている。