バーバー/コーエン兄弟・・・3
「彼が理髪として直面した悩みは、現代人の悩みです」
俺は現代人。おれを有罪にすることは自分たちの首を絞めること。
“事実でなく、事実の意味を見よ。事実は無意味だ”
バーバー/コーエン兄弟・・・2
「俺は街を歩いている幽霊。家に戻っても、
感じるのは空虚さだけ。
腰を下ろすだけ。誰も出てこない。俺は幽霊。誰にも会わず、誰にも見えない。
顔のない“床屋”」
バーバー/コーエン兄弟・・・1
「耳が不自由だったの」
「誰が?」
「ベートーベンよ。自分の曲を聞けなかったの。きっと頭の中で聞いてたのね」
経路
キルケゴールにいわせれば、“他者”のないところで、自己自身たらんとすることが「死に至る病」である。(柄谷行人『転回のための八章 4』)
フロイトの精神分析は、“共通の本質”の如き規則を想定してしまうユングのそれとはちがって、患者と医者の対話関係、あるいはそこに存する「社会的性格」をけっして排除することができない。そこでは、ラカンがいうように「終わりなき分析」しかありえない。むしろ、精神分析の功績は、孤立した個人の「内省」からはじめることも、“客観的”な立場からはじめることもできないということを、明らかにしたところにあるというべきである。柄谷行人『転回のための八章 7』)
他者不在の絶望状態→「患者と医者の対話関係」という経路から、
「労働者」という地位の保持者たちは、たしかに、「労働」によって社会全体の生産に貢献している(蓋然性は高い)だろう。ただ、彼らは「ジョブ」という地位を占有することによって、社会的財産へ貢献する経路だけでなく社会財産(の一部)を専有する経路をも確保している。(斎藤拓〈立岩真也さんとの共著〉『ベーシック・インカム 最小国家の可能性』200p)
ある地域に、二つのジョブしかなく、それに対して適正の認められる[qualified]個人が三人存在するとしよう。個人AおよびCは個人Bより労働生産性が高い(雇用主が判断した)ため、このジョブは個人AおよびCが占有する。個人Bには生産への「貢献」を社会に対して顕示するパイプがなく、ひるがえって、個人Bには社会的財産から便益を受けるパイプも開かれないのだ。(上掲書200p)
「社会的財産へのアクセス経路」(上掲書231p)に至る道筋へ。
それから〜これから。
それからについて
明治の文明開化が父の世代を富裕な資産の持ち主に膨張させ、おかげで代助は息子として父親からの送金で父親を侮るほどの教養を身につけ、なおも父親の資産に寄生して遊民の生活をしている。代助が鋭敏な生活倫理に目覚めなければこの安穏な生活はつづき、しかるべき富裕の家柄の娘をめとって、富裕の末席くらいに生涯をおくことは手やすくでいただろう。(吉本隆明『言語にとって美とは何か 1』253p)
自らが正当ではないことを知っている人間の正しさ、という幻想がこの主人公を捕らえて、彼をnill admirariの中に惑溺させる......。「それから」の主題は、代助がこの種の幻想から急転直下にすべり落ちる所に発見させるべきである。
(江藤淳『決定版 夏目漱石』99p)
「おかげで代助は息子として父親からの送金で父親を侮るほどの教養を身につけ、なおも父親の資産に寄生して遊民の生活をしている」、「自らが正当ではないことを知っている人間の正しさ、という幻想」...
そして、これから...
草枕
草枕について。
彼は只、自らの憧憬する世界を出来るだけけんらんと描き、その存在を確かめようとしただけの話である。
(江藤淳『決定版 夏目漱石』83p)
この作品のやや安価なイリュージョンを展開して漱石の得たものは、極めて高価なディスイリュージョンであった。かつて学生の頃、彼の所謂「漢文学」を好んで、文学がこのようなものなら一生を捧げてもよい、と思った期待は、あのロンドン生活を経たあとでも完全に消え去っていなかった。「草枕」を書いて、彼ははじめてそうした幻想の無益なことを知ったのである。
文学は決して彼の諒解する所の「漢文学」の如きものではなかった。「只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何文の一か知らぬが矢張り極めて僅少な部分かと思ふ」と書いた時、漱石は、切実に、「生活の意義」をことごとく包含し得るような文学のことを思っていたに違いない。(江藤淳『決定版 夏目漱石』85p)
一時的に「一生を捧げてもよい」と思ったものがあったかもしれない。対象は文学ではなかった気がする。「生活の意義」を求めたつもりが、詩的な「生活」への幻想を捨てきれずにいるのだろうか。