ノー・カントリー/コーエン兄弟・・・4

「人間ってのはな、奪われたものを取り戻そうとして更に失う。結局は出血を止めるしかない。俺は自分から保安官補になったんだ」


数秒の沈黙。


「お前は辞職するらしいが、なぜそんな気に?」
「俺では...力が足りない。自分が年を取ったら、神が、人生に入ってくると思った。だが違った。神を責めはしない。俺が神でも俺を見放す。」
「お前は神じゃない」


見放された(参加出来ない)という意識は傲慢か・・・

ノー・カントリー/コーエン兄弟・・・2

「聞くがね」
アメリカに入国できるのは誰だ?」
「さあ...アメリカ人か?」
「その中の“ある者”だ。誰が決める?」
「あんただ」
「その通り。どう決める?」
「さあ」
「質問する」
「ちゃんとした返答じゃないと通さない。分からないことは?」
「ない」

精神分析

精神分析には興味がなかった。

平たくいえば、ラカンは、フロイトエディプス・コンプレックスと呼んでいるものを、幼児が言語を獲得する過程においてとらえなおしている。*1


平たく言って頂いてありがとうございます。

そして、フロイトがナルシズムと呼んだものを、「想像界」と呼んでいる。想像界とは、いわば言葉を獲得する前の世界である。そこでは多数の自己が不安定なままで浮動している。象徴界に参入したとき(つまり、言葉をしゃべるようになったとき)、一つの自己(主体)が確立される。その場合、想像界は「抑圧」されなければならない。その意味では、フロイトがいったように、人間はすべて神経症的なのである。しかし、この場合、こうした象徴界への参入(去勢)を拒否することがありうる。それは「排除」と呼ばれている。「排除」とは、いわば「原抑圧」の失敗である。神経症が「抑圧」されたものの回帰であるのに対して、精神症は、この「排除」されたものが自我に回帰してくることである。*2


社会参加が出来ないであろうという意識は「排除」=「『原抑圧』の失敗」により生じていたのかもしれない。象徴界=いわゆる社会に「参加」するためには去勢といい、参加拒否を「去勢否認」という。参加できないという意識は原抑圧の失敗であり、象徴界(社会)への参加拒否にあるなら、参加拒否=参加出来ないだろうという意識ということになる。


自己言及の循環(誤魔化し)から抜け出すには、原抑圧を失敗させた具体(自然主義)的な真実を語らなければならない。

故に、精神分析には興味がなかった...

>フロイトがナルシズムと呼んだものを、「想像界」と呼んでいる。想像界とは、いわば言葉を獲得する前の世界である。そこでは多数の自己が不安定なままで浮動している。


言葉を獲得する前の世界である想像界において、人は自己を確立する前の幼児段階らしい...。


活字圏という社会に至る言語以前の思考過程を、活字圏(社会)の作法と親和性の高いはてなダイアリーに記録することは、幼児が言葉を獲得して象徴界=社会に参与するまでの道筋なのかもしれない。


・・・しれないと思いつつ、誤魔化しであることを自覚している。

*1:柄谷行人漱石論集成』367p

*2:柄谷行人漱石論集成』367〜368p

語り

初めから「謎」は存在しない。語りえぬものなどない。ただ、語りたくない。
「語れない」と語ることによって、語りたくないと思わせる社会が浮かび上がろうと、
それは人々にとって自明な「現実」に過ぎない。


故に初めから「謎」は存在しない。

問い

学校とは何か、仕事とは何か、結婚とは何か、といった問いに僕は遭遇していない。
生きるとは?愛とは?といった哲学的な問いも同様に。
それらの問いは社会参加当事者が「切実」に、あるいは「何となく」遭遇するのだろうか。
または、口にしてしまうのだろうか。