昔かいた文章 その2 「書けない理由」

2009年 4月 8日頃に書いた文章。


柄谷行人さんの諸作を読み漁りながら、自分が何故書けないのか、
或いは、書かないのか、考えてみた。

もう僕の時代には内面や風景は既に発見されているので、
文学的な心理描写、情景描写という概念に違和感があった。
発見すべきものは風景ではなく、
またその新しい発見は小説や詩という形式には馴染まなかったのだと考えているのだと思う。
現代文学における風景は「景色」に過ぎず、
それは写真に納まる種のものであって風景とは呼べないのかもしれない。

もう一つの理由は、個人的な問題ですが、
不自然な生き方しか出来なかった僕は物語を記述する資格がないのだと思う。


「鴎外が医者で且つ軍官僚で且つ作家だったことに矛盾を感じていたとは思えない。
そういう矛盾は、われわれが現在の基準から構成するものにすぎず、
鴎外にしてみれば「夢中で」生きてきた結果がそうなったにすぎないのである。」
(『意味という病』182頁)


「夢中で」生きた人生がなかった僕は小説という「生活」を描けない。

若い二人の女性が同時に芥川賞を受賞したのは、
確かな「生活」が作家の条件であり、
小説に求められる文学的な才能の条件が伝統的な物語の再演力であることを
世間が公然と認めた象徴的な出来事だったと思う。
「確かな生活」に年齢は関係ない。
文学とは何かという葛藤より、リアルな生活と生活との間の葛藤の物語を人々は求めている。

ケータイ小説ライトノベルの書き手も読者も「夢中」に生きた結果なのだろう。
人々は「夢中」で生きている彼ら、彼女らを歓迎し、批評する。
しかし僕が確かな生活を描くためには幾重にも策を弄さなければならない。
誰かに批評されることもなく、ただひっそりと生きている。
江藤淳森鴎外について漱石と比較して次のようにいっている。


「今日にいたるまで鴎外の文章は日本語散文の規範とされている。
しかし私にはこれは要するに鴎外という人が田舎者で、
自分のなかから自然に流れ出てくる文体には自信がなかった結果だろうと思う。
自分の言葉に自信がないから、歴史的用法を調べて権威づけ、
整然ととのった文章を書くのです。
鴎外にとっては文章とは流露ではなくてなによりもまず形式です。」
江藤淳『決定版 夏目漱石』402頁)


しかし鴎外には確かな生活と教養があった。
それ故日本語散文の規範とされるような文章が書けたし、書く「自由」があった。
自由を享受し得る生活と教養があった、と言った方が良いかもしれない。
ただ明治の言文一致運動の中、
散文を「書く」という行為には現在とは比べ物にならない程の葛藤があり、
鴎外なりに「策を弄した」果てに辿り着いたのが歴史小説という形式であるなら、
僕もあらゆる策を弄して、表現と呼べるような形式(自由)を手にする必要があるのだろう。

その形式を手にするため「夢中」でブログを続けようと思う。