聖書

なぜ拙い昔の文章を載せたのか、その理由について未だ拙い自分が書こうと思います。


昔書いた文章 その1 「読まないと決めている本」
http://d.hatena.ne.jp/joyspring2010/20100302/1267538328

昔書いた文章 その2 「書けない理由」
http://d.hatena.ne.jp/joyspring2010/20100305/1267806092


理由は、拙い文章しか書けない自分が何を書き、何を書きたかったのか。そして何を書けなかったのか、最近になって興味をもつようになったからです。
それに、ブログの特徴は即時性にあって、熟成させてから、或は熟練してから公開するという作法を、必ずしも求められているわけではないと思ったからです。しかし、アカデミック且つジャーナリスティックな文体や作法をスライドさせたような場所である「はてなダイアリー」で、あのような(そして、このような)拙い文章を載せるのは躊躇いがありました。


対話なきブログである「はてなダイアリー」では、恐らく今の僕では未だ書けないし語れない。
昔書いた文章を拙いと思う今の自分も拙いと思う自分がいる。それでも語り得る可能性を求めて書き続けたい。


ところで、聖書を書いた人々に「拙い」時期はあったのだろうか。