ボンヤリと考えること

丸山 眞男さんは『日本の思想』のあとがきで小林秀雄について次のように述べている。

小林氏は思想の抽象性ということの意味を文学者の立場で理解した数少ない一人であり、私としては実感信仰の一般的類型としてではなく、ある極限形態として小林氏を引用したつもりだったのである


また、柄谷行人さんは、

江藤淳に対して小林秀雄を認めることがあるとすると、やっぱり小林は抽象的なものの現実性ということをわかっていた人だと思う。『抽象的なものの現実性』というのは、関係そのものの現実性のことです。たとえば数学がそうだ。江藤淳にはそれがない。思想の問題を心理に還元してしまう」(『近代日本の批評 昭和篇[上]』131頁)


と述べている。


丸山 眞男さんの言う「思想の抽象性」や、柄谷行人さんのいう「抽象的なものの現実性」が、これまで「ボンヤリ」と呼んでいたものなのかもしれない。


そうだとしても、ただボンヤリと本を読むだけで上手く言葉を構成する訓練を積んでいない、或は何らかの障害があって訓練を積むことが出来ない僕は、書き手にとって、もっとも憤るべき読者の一人なのかもしれない。


「考えるってことは抽象的な議論を好むことはまったく別の話で、ものを読むことができた上で、しかも分析=記述による健全なイメージ形成能力があるってことです。」(蓮實重彦『近代日本の批評 明治・大正編』286頁)


ボンヤリと読んでしまっている自分が、本当にものを読めているのかどうかは分からない。自信がない。たぶん「思想の抽象性」や「「抽象的なものの現実性」を掴んでいる文体に、すがるようにかじりついているだけだと思う。


先日参加したALSのイベントで 近い将来に思考や脳内イメージを具現化できるブレインマシンが実現するだろうとおっしゃっていましたが、もしそうなればボンヤリした自分の思考や思考過程、脳内イメージをアウトプットすることが可能になるかもしれません。