『海辺のカフカ』のナカタさん

紛争の解決を図る際、

直接的には表象できないものに仮の「形」を与えて、矯正的な「正義の秤」を水平にしようとする場合、各人にとっての有用性や好みが異なる具体的な″物"や"行為"よりも、具体性を「捨象」され極限まで「抽象化」された「貨幣」の方が都合がよいといえよう。(仲正昌樹『お金に正しさはあるのか』171頁)


仲正昌樹さんの『お金に正しさはあるのか』では「「貨幣」が新しい「信用」を作り出すうえでポジティヴな役割」を果たしている文学作品の例として村上春樹の『海辺のカフカ』を挙げている。

個人的に村上春樹の長編小説では『海辺のカフカ』が一番印象に残っている。夜行バスや私立図書館の空間的な雰囲気やナカタさんや佐伯さんなどのキャラクターに魅力を感じていた。特に、〈「貨幣」と結びついた「抽象的な思考」ができ
ず、複雑な会話もできない〉(180頁)ナカタさんが気に入っていた。〈字が書けないが、猫と話をすることができる。ずっと中野区を出たことがない-死んだら世田谷区の「カラスヤマ」の墓地に入ることになっている-ナカタさん〉(174)が。

〈「貨幣がきのこのように勝手に自己増殖する」ことが”当たり前”になっている、全面的に貨幣化された社会の一員になり切っていない〉(176頁)カフカ少年も。

〈何らかの"本体"があるのかもしれないが、具体的な形を取ってナカタさんの前に「現前化」し語りかけることができないので、有名な「商品」の外見を借りたよう」であり、「物理的な本体を持たず、もっぱら「商品」を通して自己を現わす「貨幣」のような存在だと言える〉(181)ジョニー・ウォーカーさんも。

〈宇宙の超越的な法則性の化身であるとしてか思えないところだが、そういう先入観がなければ、「資本主義のイコン」を利用しているわけだから、市民社会を「信用」関係によって統合している中立的なメディアである「貨幣」の化身として読んでもいいように思える〉(183頁)カーネル・サンダースも。

〈佐伯さんの亡くなった恋人の実家が「資産家」だったことによって、金銭的に支えられている〉(184)甲村図書館も。

〈ナカタさんに補助金を出してくれる〉、〈恐らく(アメリカに対して)ノーと言える日本」と言って話題になったタカ派の知事と思われる〉(186頁)知事さんも。

「何と言っても一番の被害者とおぼしきナカタさんが、アメリカに対しても、(中略)日本という国家に対しても反抗的態度を示していないことが大きい。ガス実験のおかげで知能の発達が止まって抽象的な思考ができなくなっているナカタ
さんには、誰が自分をこのような影の薄い存在にしてしまった元凶かという分析はできないし、そもそも自分が不幸か幸福かさえよくわかっていない-ご飯を食べている時だけは、幸福に感じるようである。」(前掲書188頁)


抽象的な思考が出来ないナカタさん・・・。抽象的な思考にしがみついている自分・・・。

現実に、ナカタさんのような人が中野区で平穏に生きていけるかは別にして、自分に必要の無い"大きな金額"に「関心interest」を示さず、狭い日常の中にとどまり続けた彼の人生は、それなりに安定していた。ジョニー・ウォーカーの姿
を借りた"何か"がちょっかいを出して、日常性の"外部"の、「精神における抽象的思考」と「ファンタスゴマリー的な欲望」が相互作用しながら発展し続ける市民社会の"現実"のただ中に強引に連れ出されるまでは。(前掲書190頁)


連れ出されるまで、ナカタさんは「猫さん」と話せる能力を活かして「猫さん探し」のビジネスをしていた。そこには〈ナカタさんと近所の人々の間に、『貨幣』に媒介された絆(=信用)が成立〉(194)しており〈中野区内の彼の周辺周辺には極めて小さな『経済』関係が成立していた〉(191)〈利殖的な性格がほとんどなく、使用される地域と用途、相手が限定されており、しかしそれゆえに地域的コミュニケーションの緊密化のためのツールになっているという点では〉(194〜195)〈「猫さん探し」のお礼としてナカタさんが受け取っている「お金」は、実質的に「地域通貨的」なものだったと言える〉(194)という。そして、〈損得勘定などしないで、淡々と頼まれた仕事をするだけで〉(195)〈
自/他の利害関係に対する「無関心さ」のおかげで皆に信用されて、「猫さん探しという仕事を依頼されるのだろう。〉(195)


抽象力にしがみついている僕は、損得勘定から逃れられず、自/他の利害関係に関心を寄せているのだろうか。ただ、利害関係に無頓着であるがゆえに、ナカタさんは地域的なのかもしれない。自/他の利害関係・損得勘定の意識が、公的な営みには必要なのかもしれない。


ところで、なぜ『海辺のカフカ』やナカタさんの存在が気になってるのだろう・・・。つい「ボンヤリ」という言葉をつかってしまいそうになります。

仲正さんはナカタさんにこだわる理由について述べている。

私がなぜナカタさんの話にこだわるのかというと、『海辺のかカフカ』に描かれたナカタさんというキャラクターが、貨幣によって無制約の所有「欲望」へと駆り立てられることなく、“コミュニケーションの補助媒体としての貨幣”とつき合っていくための条件を“身を持って”示しているように思えるからである。それはほぼ達成不可能な条件であるー哲学にとって、なぜ“達成不可能”であるかを考えることは、決して無意味ではない。(前掲書(198〜199頁))


なぜ“達成不可能”か・・・