公的な営み

考えることは、公的な営みに関わる何かであるような気がする。

そんな時、僕はカントを思い出す。カントはどうしてあんなに抽象(観念)的な文章を書いたのか。

竹田青嗣さんは柄谷さんの『トランスクリティーク』を批判している本で次のように述べている。

柄谷は、カントの『啓蒙とは何か』から、カントの「世界公民的社会の一員」という言葉を引き合いに出し、カントの思考がはじめから国家的、共同体的な枠組みを超えるようなものだったと、主張する。しかし、ひとことで言って、カントにはそのような「共同体の間」に立つという発想はまったくなかったし、なにはともあれ市民国家の建設が火急の課題だった時代にそのような考えを持つ理由もなかった。*1


(因にこの引用は昔メモ帳に書き残したものです)。

「市民国家の建設が火急の課題だった時代」だったかどうかは置いて、抽象的な思考は必然的に超国家的・超共同体的なものに結び付くのだろうか。

彼は空間的には全く移動しなかったが、移動への誘いを拒否したことにおいて、そしてコスモポリタンであり続けることにおいて、一種の亡命者であった。*2

ケーニヒスベルクからほとんど動かなかったカントほど「移動」と縁のない哲学者はいない。しかし、ケーニヒスベルクはたんに辺境の田舎ではない。それは当時まで繁栄したバルト海の交易の一つの中心であって、ある意味でベルリンよりもかえってイギリスに近く、さまざまな情報が集積する場所であった。*3


「『移動』と縁のない」「さまざまな情報が集積する場所」・・・インターネットに繋がったPCの前に座る・・・いやこれだけでは条件を満たさない。「思想の抽象性」、「現実の抽象性」にすがりつかざるを得ない境遇が...主人であり奴隷であり

*1:竹田青嗣『人間的自由の条件』14p

*2:トランスクリティーク』18p

*3:トランスクリティーク』200p